なんか、春を思わす暖かさ。
今日は歯医者。年末年始といっぱいで、次は二週間後だ。行くのはヤなので、嬉しいが、痛くなると困る。
えべっさん、始まる。
まあ、兵庫駅のえべっさん、Kやんでも暇しているようなら、誘ってお参り行くつもりなのだが、えべっさんも実はこわいこわい神さんで、いざなぎ・いざなみ、最初の頃、ひるこを産んで、カワイそうにも流してもた。それがけなげにも、泳いで、どこぞの地に流れ着いてようやっと神さんとして、祀られることになったという。ひるこ、なんやから、今のえべっさんの姿とは違っていたような気がする。
記紀神話にあてはめて、これだけ、おどろおどろしい。しかし、本当のえべっさんはもっと怖いのである。
この前の八坂神社も元々はミノタウロスみたいな牛頭天王をお祀りしてたのが、今はスサノオの命が主神である。スサノオだって、怖いし、乱暴で、個人的には好きなのだが、なんで、こういうことになったかというと、
伝統ある宗教行事や貴重な伝承を失わせた明治の構造改革
やがて、明治維新となる。国学者たちが拠った明治政府は王政復古、神武創業の始めに基ずく政治政策を遂行し
そのために祭政一致を目標とし神社を国家統合のための機関にしようと意図していた。そこで伝統的な神仏習合の
信仰形態を一掃し国家神道としての体裁を整えるために神仏分離政策が行われた。
牛頭天王を祭神としていた神社に対しては、全てその祭神をスサノオ尊に変えるか、もしくわ、祭神のなかから牛頭
天王を除外することを求めた。
このとき京都の祇園社自身もその名を八坂神社と改め祭神をスサノオ尊に変更した。
ちゅうことやねん。
ホンマのえべっさんは、もっと怖い。いざなぎ・いざなみの非嫡子などではなく、もう、外から来た何か、なのだ。
えびす - Wikipedia
様々な記紀神話の神に当てられるえびす神だが、いずれの神も後世の付会であって、元来の姿ではない。えびす神の漢字に戎や夷などが当てられている事は、中央政府が地方のまつろわぬ民や東国の者をえみしやえびすと呼んで、戎や夷の字を当てたのと同じことで、いずれも異邦の者を意味している。「えびす」という神名の文献における初見は平安時代後期の『伊呂波字類抄』であるが、そこには「夷 エビス 毘沙門」と記されている。少し時代が下った『諸社禁忌』には「衣毘須 不動」とある。古い時代には、えびす神は毘沙門天や不動明王を本地仏とする神格として信仰されていたことがわかる。えびすの神像も、古い時代のものほど威厳に満ちたものとなっており、この時代のえびすは「荒々しい神」として信仰されていたものとみられる。
端的にいえば記紀神話以外の外来神・蕃神である。
そこからもわかる通り、もともとは異邦より村に時たま訪れる外来の神であり、海の向こうからやってくる水の神である。漁村では近年までイルカやクジラなどをえびすとよんだり、水死体のことをえびすとよんだりする地域もあり、漁のときに水死体を拾うと大漁になるという信仰もあるという
上に「水死体のことをえびすとよんだりする地域もあり」というのがあるが、オレも、それで思い出したことがある。
出典はちょっとわからんが、しかも、うろ覚えだから、例によって話半分ちゅうことで。
それによれば、もっと大雑把に初期のえびす神社、ちゅうもんは、海岸に水死体が流れついたり、下手したら、どこぞ別のところから辿り着いた漂着民とかいると、まだ生きているのに死んだ状態にして(婉曲表現)、むりやり「えびす」を作り出したとも云う。それで、湾岸地域の住民たちは、大喜び、ご神体がでけたわい、えびす神社作ったれ、ちゅうノリだったという。もちろん、今宮戎も西宮神社とかがそうだというわけではないが。海岸沿いの神社にえべっさんは何故かある。
まあ、怖い神さんほど、ご利益はデカい、ちゅうことですわ。
水死体だとあんまりだから、わんぱくフリッパーみたいなお茶目なイルカが海からなんぞ取ってきては、湾岸地域の住民たちに持ってきてくれて、ありがとうの意味で神社にしたんかもしれんけどね。
だいたい、サブプライムローンが破綻とか株暴落とか、アメリカ人も大統領選で浮かれている場合ではなく、もう、大挙して、戎神社で、笹持ってこーい、せな。
ま。今年こそは、商売繁盛といきたいものですね。