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2020年6月20日土曜日

令和2年6月20日

 スワローズ、勝つ。これで、今季、全敗は無くなった。


 前も書いたけど、今の「リベラル」ちゅうのは、60年代の「ラジカル」が、劣化して「リベラル」の皮かぶってただけやから。ちょっとしたことで、すぐに、「ラジカル」に戻るねん。劣化したまま。そやから、あれしてもエエこれしてもエエ・・・より、これしたらアカンあれ云うたらアカン・・未来をめざしてるみたい。そんなん、イヤやからね!!



 5月のうちに、「新約とある魔術の禁書目録」、22リバースまで、完読。


 まあ、戦闘シーンなんか、オレの脳内でイメージ化がついていけないほど、ぶっ飛んでいるんで、まあ、そういうものだ、と自分に言い聞かせて、イメージ化映像化を放棄して、読み進めたとこがあるが、それはまあ、しゃあないだろう。そいでも、めちゃくちゃオモロい!からスゴい。


 そいでも、世の中がコロナハザードの真っ最中に「クロウリー・ハザード」んとこ読んでるという、感覚!


 「創約とある魔術の禁書目録」1も読んだ。ちゃんと、オティヌス登場していて、ほっとする。木原脳幹も。

 今は、食蜂操祈の11や、オティヌスの「ドールハウス」、結局、どうなったんだろう?とか、気になる巻、ちょこちょこと。今、9巻読み返し、あの「10巻」!、今日か明日読むわけで、興奮している。
 分厚い「とある魔術の禁書目録外典書庫」とある魔術の禁書目録 外典書庫(1) (電撃文庫)届いたけど、未読。楽しみ。

「新約」の感想ちょっと。

「新約」の後半では、アレイスター・クロウリーが全面的にフィーチャーされてた。

 だいたい、アレイスター・クロウリー、ビートルズのサージェント・ペパーズのジャケットにも、福助と一緒に写ってるほどのガチの「実在」の魔術師。

 英国では、実際、「魔術」の体系化や実践化がおこなわれていたらしい。いろんな魔術師集団の派閥もあるみたいだし、これはこれで、オモロそうである。

 もう少し若く、しかも、「東京ヤクルトスワローズ」を勝利をもたらす「魔術」があれば、オレも魔術師になる修行やトレーニング積むことやぶさかでないのだが(嘘)。

 まあ、うまいこと行ったら、そりゃ他球団も魔術使い出すやろし、そないなると、野球の試合というより、魔術合戦みたいになってしまうからなあ。



 アレイスター・クロウリー。

史実では、1947年死んでいるが、作品では、そのまま、日本に来て、東京都の一部に、「学園都市」
学園都市 (とある魔術の禁書目録) - Wikipedia: "作中世界の二大勢力の片割れたる科学サイドを支配する総本山。東京都西部に位置する完全独立教育研究機関[1]。あらゆる教育機関・研究組織の集合体であり、学生が人口の8割を占める学生の街にして、外部より数十年進んだ最先端科学技術が研究・運用されている科学の街。また、人為的な超能力開発が実用化され、学生全員に実施されており、超能力開発機関の側面が強い。
世界トップクラスの金融センターにして世界経済を回す動脈であり、後述の経緯で放棄された際には、不安定になった経済を戦争の利権で取り戻すため、各国で学園都市から流出した技術を利用した殺人兵器の増産に拍車がかかっていた。"

のトップに今の今まで居続ける設定(実は過去形にせなあかんのだが、ネタばれになるので、そのまま)。

「とある」シリーズ、スゴいシリーズやで。

2018年10月14日日曜日

平成30年10月14日 「応仁の乱」からの室町

 菅野智之選手ノーヒットノーラン達成、おめでとうございます!(東京ヤクルトスワローズファンやっていると、人間修行になりますわ、いや、ほんま)

 
 あかん。「室町」にハマってしもうたがな。
 「応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書」)(呉座勇一著)で、畠山義就の存在のデカさに驚いた。負けても負けても、歯向かっていく。かっちょいい!日野富子なんか、脇役の脇役じゃないか。

 最新の研究を元にした「応仁の乱」で味をしめたんで、観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)(亀田俊和著)で、先祖代々「南朝びいき」にもかかわらず、ついに、「朝敵」足利尊氏の苦労についホロリとしてしまい、これじゃアカンと南朝研究の最前線 (歴史新書y)読み始めたが、これは、今の研究がどのくらい進んでいるか、という研究者たちが書いたヤツで、かなり、オモロい。だが、当たり前だが、知らん人名ばっか。これじゃアカンというので、この本に紹介されている闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉 (角川ソフィア文庫)を読んだ。後醍醐天皇のあれやこれやから、義満の一応の南北朝合一まで、60年。そっから、「後南朝」と呼ばれる時代がほぼ90年。かなり頑張って(?)一時は三種の神器奪還に成功したりしとる。

 谷崎潤一郎「吉野葛」や小松左京本邦東西朝縁起覚書 (ハヤカワ文庫JA)で有名な自天王の悲劇のあたりは、胸がきゅんきゅんしてしゃあない。中学の頃読んだ「本邦東西朝縁起覚書」の感動、今も続いているのだ。

   まあ、いい。なにか、一朝「事」があれば、菊水の旗の元、家の子郎党ひきつれて(湊川神社あたりで、エエんかな?)に参ずることは深くオレの心に刻まれてるし、今のオレの興味は「室町時代」だ。
 ここまで、読んだところで、そもそも、室町幕府の事、オレはなんも知らんということに気がついた。

 戦国時代になると、それぞれの戦国大名の規模がわかるし、信長や秀吉家康、北条氏康や佐竹義重、斎藤道三等、キャラ立ちすらしているのだが、足利基氏や上杉禅秀となると、皆目わからん。いや、そもそも、「関東公方」「関東管領」すら、実のところ、わからん。徳川幕府の頃の感覚で、つまり、「石高」でその大名のだいたいの実力がわかるという時代では、まだない。何千人何万人単位の「乱」なのか、百人未満の「乱」なのかも、わからん。

 ちゅうことで、読むばかりじゃしんどいので、図説 室町幕府で、理解を深めた・・・つもりになった。

 そいで、調子に乗り、関東戦国全史~関東から始まった戦国150年戦争 (歴史新書y)読んだら、同族同士のまさに血で血を洗う争いの連続、性が同じで似たような名前の同族同士が争うのだから、読んでて、どっちがどっちかわからなくなり、もう、拷問に近い。武田氏も千葉の武田氏がでてきたりして。
 だいたい、関東公方足利政氏はなぜか、息子高基と戦い始めるし、関東公方ですら、そのうち、鎌倉におられないようになって、古河公方になり、小弓公方や京都から堀越公方やら。関東管領も複数存在するし。もう、めちゃくちゃ。北条早雲(伊勢)や北条氏綱、佐竹義重とか、が出てきて、ほっとした感じ。上杉政虎の管領就任あたり、ちゃんとした戦国時代はエエもんだなあと思ったほど。

 そいで、ちょっと大きく、征夷大将軍研究の最前線 (歴史新書y)読み、再び、初期室町幕府研究の最前線 ここまでわかった南北朝期の幕府体制 (歴史新書y)で、読んだ。

 で、ここまで、今の最先端の室町研究本いろいろ読んで、オレの中の網野善彦史観というか、異形の王権 (平凡社ライブラリー)、でイメージされた後醍醐天皇像ががらがらと音を立てて崩れていきました。網野善彦の後醍醐天皇はカッコよかったのに・・・。
 また、室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)での足利義満像も変わった。話が逆、つまり、北朝側が、お金目当てに、義満利用した感じ?だったのか。
 実は贔屓の「南朝」、特に「後南朝」もちょっと・・・。

 でも、今、「室町」の研究は、どんどん、進んでいるようで、つまり、どんどん、新しい事実が見つかっていたり、史料の検討が進んでいるようで、わくわくする。また、今までの通説がひっくりかえされていくのも、痛快である。
 

2016年3月14日月曜日

3月14日

 今日は映画の話題。オンリー。数日かかったんで、なんか、変なとこありまくりかもしれんが、ファーストインプレッションということで。だから、云うて、しんどいから、クレームついても書き直さへんでぇ。



映画監督 村川透 和製ハードボイルドを作った男


「映画監督 村川透(和製ハードボイルドを作った男)」読み終える。
ちゃんとした書評とか、わかりやすい感想文は、Amazonレビューや、その手の方のブログなりTwitter等探してくれ。オレはまともには書けない。

 おもしろかった。ちゅうか、日活(アクション)の香りというか匂いというか、味というか、テイストというこか、なんちゅうのか、そういうもんをよくぞ、ず~~~っと、今の今まで、残しておいてくれたものだ。「さらばあぶない刑事」の監督である。 
それに、かなり刺激的な本だった。

 ドラマ版の「あぶない刑事」が始まってまだ、試行錯誤状態での、くだり、「村川(透)さんは日活の王道舛田(利雄)組で、長谷部(安春)さんは、鈴木清順派らしいからね」(P226)というのを読んだ時、ハッと気づき、ため息をついた。読み方、間違えていた・・・。

 オレは、読み違えていた。
 山形出身の村川が日活に入ったものの営業で、いっぺん退社してから、制作に入り直し、苦労して、助監督になり、苦労して、舛田利雄の助監督になり苦労して「トラ・トラ・トラ」でも苦労する、あーえらいな、オレにはマネはでけんな、やっぱ、関西人とはちがうわ、じゃ、アカンかった。村川透、エラいエラい、銅像建ててもらえ・・・。

 浅はかだった。
 日活の映画そのものを自らに叩き込んでいたのだ。
 そうなんである。

 オレの認識では、日活アクションは「紅の流れ星」を最後に60年代後半からは「ニューアクション」と変えたものの、1971年の日活ロマンポルノの登場を持って、「死」を迎えたものとばかり思っていた。だって、矢作俊彦がそう書いてたもーん。

 いや、日活ロマンポルノ時代になっても、東映と寅さんが全盛になっても、スター・ウォーズが来ても、21世紀になっても、2015年になっても、連綿と、ず~~~っと、村川透監督作品に、日活アクションは生き続けていたのだ(と、考えてみることにする)。

修正。
(と、考えてみることにする)->かっこ取る
と、考えてみることにする ->みること、取る。
と、考える。
日活アクションは生き続けていたのだ、と考える。

「映画監督 村川透(和製ハードボイルドを作った男)」の、もう、感想文じゃない。

 日活アクションの衰退については、いろいろ云われているが、ズバリ、「赤木圭一郎」の早すぎた死である。彼の死以降、日活アクションの担い手として、渡哲也がどうにか、という感じで、とてもじゃないが、赤木圭一郎の代わりにはならなかった。だから、ダメになった。いい俳優はもちろん、出た。高橋英樹も、いい。でも、日活アクションのスタア向きではなかった。

 するてぇえと、だな、70年代に現れた「松田優作」に、「赤木圭一郎」を見た・・・というより、「赤木圭一郎」の死でぽっかり開いたポジションがようやく埋まった、と興奮した層はかなりあるのではないか。

 ここまでは、もちろん、推理・・・いや妄想である。

 するてぇえと、オレが、何をしないければならんかというと、遊戯三部作を、観直すこと、それも、70年代の「日活アクション」として、観直してみなければならないわけだ。

 めちゃくちゃ、しんどい。だって、小林旭も石原裕次郎も赤木圭一郎を知ったのは、松田優作より、ず~~~っと後なのだ。

 しかも、遊戯三部作なまじ、リアルタイム(もしくはヴィデオ化されてから)で見ているもんで、それを今更、「日活アクション」として観なければならない(と、しんどそうに書いているけど、実はへーっちゃら、好きな映画なんで、フツーに観直せばいいだけ、ちょっとだけ、日活アクション意識して、あ、あ、あ、あ)。あと角川の「蘇る金狼」と・・・あ、「野獣死すべし」は、面倒くさいから、観直さんとこ。リップバンウィンクル。

 と感想文書く、つもりが、わけのわからんもんになってもた。
 まあ、それだけ、この本がオレにとり刺激的だった、ということだ。
 それに心配するな、ちゃんと、榎木兵衛氏、この本に登場している。

 映画関係者にメッセージ、スカッとする映画、カッコいい映画、カッコいいアドリブが飛び交う映画、これからも、作ってくれ。そいだけでエエねん。

2015年8月21日金曜日

8月21日

 「日本のロック名盤ベスト100」(川崎大助著 講談社現代新書)を読む。

 「風街ろまん」が1位とするような人の書いた本で、当然、オレとは音楽への態度が異なる。
 ただ、ロックベスト100に、ランキン・タクシーやらスチャダラやミュート・ビート入っているんで、もしや?と思った。けど・・。
 それでも、ランクそのもの凄い。半分ぐらいしか、知らんけど、面白く読めた。

 ランク付けが終わると、「第二部 米英のロックと比較し日本のロック全歴史」では、最後のあたり、ず~~~っと、愚痴りながら説教されているようで、しんどかった。ロック教条主義は言い過ぎかもしれないが、少なくとも、ロックによって世の中を変えることができると、信じているようである。米英のロックといつまで、比較せなあかんのだろう?
 
 やっぱ、本の題名に「ロック」つけるぐらいなら、読む側を、「おおおおおおお!!!」と思わせてくれないと、淋しい。
 悪いが、オレは、クリントン元大統領とストーンズの話ができても、なーーんも魅力を感じないんである。

 ま、そんなことはいい。買った方が悪い。読んだほうが悪い。

 第二部で、GS(グループ・サウンズ)に関してボロクソ書いてあり、この点に関しては、(ムフフ)である
 「・・・似合わない不格好なマッシュルームカットして、振り付けを覚えて、『歌謡曲』としかいいようないロックもどきを、60年代後半になってもやる」(前掲書195ページ)

 まあ、この一文が著者のGS観を表している。たしかに、実際、当時、GSやってる方々も、そう思ったからこそ、「ニュー・ロック」路線を取ったわけであろう(これが日本の音楽の最大の不幸とオレは思っている)。
 80年代後半の近田春夫による、B級GS観、90年代の主に黒沢進氏よるカルトGS観等、何度もGSは再評価再再評価再再再評価されているのに、あいかわらずの観点からの評価に終っている。

 それに、沢田研二のマッシュルームカットは似合っていた気(http://60spunk.m78.com/tigers.html)がするぞ。GSのみならず、ジャニーズ系は70年代入っても、80年代入っても90年代入っても今の今まで、その路線でやっているわけだし。 

 レインジャーズの「赤く赤くハートが」聴いて、思わず血が出てしまうほど胸を掻きむしってしまいそうになる、「狂おしさ」、ジェノバの「サハリンの灯は消えず」のかつての領土樺太につい抱いてしまう、かなり危険な「郷愁」、ザ・プレイボーイズ「シェビデビで行こう」の、そのままボケて記憶を失ってしまいそうになる「爽やかさ」、オレは、「風街ろまん」より、これら「ロックもどき」に、「ロック」を感じてしまうんである(少し表現を大げさにしています)。

 読後、上記のようなこと思ったからこそ、こうして、今、ひさびさに、GSばっか聴きながら、これ書いているわけで、買って良かった、読んで良かった。
 しかし、なんで、今のロックの人たちは、「風街ろまん」を超えるアルバムを作ってくれないんだろう。21世紀でっせ。実はこっちの方が、ずっと、ず~~~っと、問題と思うが。それとも、憲法9条みたいに、一位固定化されてしまった?・・・まさか。

2015年5月2日土曜日

1979年の「虚無への供物」

 この前、小中高大学まで一緒但し予備校は除く、の友人と話していて思い出した。
 そうなんである。オレは問題を抱えているんであった。しいて、名前をつけるとしたら、「中井英夫『虚無への供物』問題」であろうか。
 
 根は深い。うん十うん年前、オレは大学に入った。そして、某サークルに入った。サークルというより研究会だ。なぜか、その最初の集まりは4月も終わりになって、そう、ちょうど今頃、連休前のことであった。
 待たされたわけで、もう、うれしいて、うれしいて、オレはテンションマックス、勇んで行った。
 1979年のこと、であった。
 
 そのサークルというか研究会、女子は一人もおらんかった。まあ、それでも、テンションマックスである。

 自己紹介の時、好きな作家のことを熱弁した。何せ、テンションマックス、ハッタリ、大風呂敷、そして好きな作家の好きな作品を喋れるもんだから、マシンガントーク、この状態知っているヤツは知っているだろうけど、今でも酔った時、20回に一度ぐらいそうなることがあるが、そうか、もう酒やめているんだった。
 
 最初、こういうノリを見せておけば、あと、ふわぁっとしてても、ぽけーっとしてても、なんとでも、なるのである(実際、教養のクラスでは最初、いっぱつ、こういうのかまして、オレが大学でやりたいこと、周知徹底させておいたんで、ろくすっぽ授業受け無くても、テストになると、みんなが手とり足取り面倒見てくれた)。

 雑談モードに入り、やはり、同じもんが好きな人たちのあつまりだ、まったりとした心地よい時間が流れていった。
 (たいしたことないじゃん)ナメてしまったかもしれん。

 遅れて、その人は現れた。三回生か四回生か、覚えていない。いい男っぽかったが、ちょっと童顔で背が低かったと思う。新入生が名前だけ名乗った後、その人はおもむろに、自分の鞄の中から、読んだばっかりだったのだろう、ぶあついぶあつい講談社文庫版「虚無への供物」を取り出した。

 「ねぇ、これ読んだ人いる?」


 新入生を見渡した。その時のいたずらっぽい目。嗚呼・・・・。

 中井英夫「虚無への供物」。日本推理小説三大奇書の一つである。
「ドグラ・マグラ」は高校か浪人の時、一回読んだあとそのまま二回目読み始めるというぐらい、文体のノリだけに惹かれ大好きになり夢野久作全集買い込んだぐらいだが、黒死館殺人事件は、まあ、外国語の原書を読むノリで、わかんないとこ、とばしとばし読んだら読み終わってもナンノコッチャい状態、読破していたものの、「虚無への供物」はまだだった。

 そして、新入生誰も読んでいないということがわかってから、「虚無への供物」の面白さを語り始めた、
 
 (この人、「虚無への供物」、推理小説として読んだんじゃなく、SFとして読んでる・・・)
 それはすぐにわかった。
 その先輩はスゴかった。

 そして、「虚無への供物」をネタに他の先輩もヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーター(プログレっぽい音を出すロックグループ)なんかを持ちだして加わる、翻訳志望の方は、原書しか出てない作品出したりして、加わる。おそらく、本来のそのサークルというか研究会の通常のノリを魅せつけてくれた。
 これが単なる雑談なのだ。
 他の先輩も、それぞれ、カッコ良かった。自分のテリトリーを持ってて、そこに引きずり込むわけでもなく、そのテリトリーがずっぽり出てしまうわけではなく、足し算、自分のテリトリーを絡めていき、広げていこうとしている。

 内容はわからんが、楽しさだけが、ビンビン伝わってくる。
「アカデミックやのぉ」
 これぞ、大学。まさに、大学。うーん、マンダム。

 

 ひと通り終わった後、その先輩は再びカバンに「虚無への供物」を入れながら、オレのしょうもない質問に答えてくれた。何を訊いたか覚えていない。
 「・・・うーん、最近、SF読まなくなったから、分かんない」
 そして、デートの待ち合わせがあるというので、そのまま、笑顔一発残して、去っていった。
 SF研で「SF読まない」だぜ、カッチョええ、良すぎるやんけ。

 オレは、打ちのめされた。
 いや、敗北感というより、罪悪感である。

 (SF千冊読んでいないのに、SF研はいってもた・・・)

 1979年当時、SFファンは1000冊SF読まなアカン、という不思議な、暗黙の了解みたいなものがあった。
 
 (やっぱり、千冊ルールというのは、ホンマやったんだ)

 家帰って読んだSF調べたら600冊弱であった。
 あと400冊読まなアカン・・・でないと、カッコつけられない。
 
 そして、以降、授業はサボりまくり、ストイックにパチンコ行って設けたお金を持って、古本屋めぐりをして、SFを買いまくり徹夜で読みまくり、原書に手を出したくなかったんで、「虚無への供物」もSFとして読めるなら、片岡義男も村上春樹も村上春樹もSFじゃい理論と、雑誌も一冊に数えるというズルして、どうにかこうにか、ついに、400冊読破し、1000冊になった。
 
 読破した途端、なんちゅうかほんちゅうか、SFに飽きてしまった。
 

 そういうもんであろう。
 まあ、読んでいた600冊は純粋に楽しみで読み、400冊は義務にかられて、知識を得るため、読んだという見栄のため、読んだだけだ。オレの読書歴には、400冊は入れられない(もちろん、400冊の半分以上はオモロい本だったけど)。

 また、飽きても飽きても、好き、そっから、突き進む、という状態にはなれなかった。
 挫折というより、この大学時代のほぼ費やして読んだ400冊こそ、まさに、虚無への供物、というヤツじゃないだろうか。400冊分の「虚無」。
 人生ムリしたらアカン。これでいいのだ。
 
 やがて、学部に入り、SFに挫折したオレは、SFにグレてしまい、SFには見向きもしないで、クルマ乗り回して、女の尻を触りそこないながら、遊びまくりました。
 学部のクラスも、GさんとF君が超存在感があって、ある意味、カルチャーショックあったけど、それは無視して、遊びまくりました。

 

 中井英夫の「虚無への供物」、読んだる、と言う勇気は当時も今もない。・・・勇気じゃないな、あの先輩みたいに「虚無への供物」を面白がって読める「力」が、まだ、無いだけなのだ。
 
 
 
 
 
  

2015年1月20日火曜日

イナゴ身重く横たわる

 フィリップ・K・ディックの「高い城の男」(1962)読み返す。

いつものように、発作的に読みたくなったワケではなく、なんとまあ、この小説を実写化、テレビドラマ化、するという、奇っ怪な話が進んでいるらしいからだ。


いうか、もう、AmazonのUKでは、第一話のパイロット版が公開されている(オレの環境では観ることができなかった)。
まあ、これが数年後、完成し、そのまた数年後、日本でも観ることができるようになっては、遅すぎる。
いますぐ、観たい、でも、ない、だから、読む。そして、読んだ。


第2次世界大戦で、連合国側が負けて、アメリカがドイツと日本に3つに分割されている世界。ドイツはナチス・ドイツで日本は帝国日本である。小説の舞台となるのは、戦後15年ぐらい。
リアルタイムで読んだときは、もう、このあまりにも、魅力的な設定に興奮してしもうて、困った。
ただ、この小説読んでも、その魅力は、まったく、伝わらない。なぜなら、ディックの小説だから。
こいで、世界を二分している、ドイツ対日本の戦いになって、ドンパチドンパチした架空戦記もん、或いは冷戦下の米ソ間みたいな緊張の中の日独スパイ合戦みたいになったら、それはそれで面白いところ、でも、作者はまだまだ駆け出しの頃とは云え、ディック、ディックイズシックのフィリップ・K・ディックである。

まず、その世界で、日本とドイツが負け、連合国側が勝ったというSF「イナゴ身重く横たわる」がベストセラーになっている。
フツー、「日本とドイツが負け、連合国側が勝った」のだから、ホンマの現実と同じく、1960年代みたいに、米ソの冷戦下、と思えば、そうでない。「イナゴ身重く横たわる」では、アメリカとイギリスが覇権を争っている世界みたいなのだ。
・・・このSF内SFのズラし具合。それも、非常に気色悪いズラし、である。


易経」の占い、ほれ、占い師が筮竹ばらばらしてやる占いも、日本人、日本統治側のアメリカ人がいろんな場面でやりまくるんで(所詮、ディックも毛唐やのぉ、日本人がみんな占いで物事決めると思うてる・・・)としておったが、ラストあたりで、ぶったまげることになるわけである。


まあ、個人的で、申し訳ないが、オレがディックの小説読む場合、ディック・シフトをしくことにしとる。「登場人物、多少おかしなことしても、個性とみること」、まあ、平たく言えば、ディックの小説に出てくる人間もアンドロイドもレプリカントも後ワケのわからん生物体もみんな、(クスリやっている)と思うことにしとる。非常に魅力的なのだが、どっか変である。理解しようとしたら、こっちもクスリやるしかない、でも、オレは、きわめて社会的な人間なのだ。

でも、油断し、このシフトを取らずに読んだ。1962年の作品、さすがにディックもまだ駆け出し、まだ、「暗闇のスキャナー」時代ではないだろうと思ったのだ。

だから、田上のおっさんが、ラスト近くで観た、と言うか、体験した、と言うか、「イナゴ身重く横たわる」の世界に入った、と言うか、ワシらが今暮らしている方の世界に入ったというか、突然訪れたワケのわからん状況が、なんだったのか、今も、脳みそに、大きなクエスチョンが残っているわけである。

まあ、あと書き出したら、また収拾がつかんようになるんで、このへんで。あとは読んでください(ウィキペディアみたら、全部、オチまで書いてある・・オチに触れんよう触れんよう感想文書くんがどれほどしんどいことか・・)。

しかし、「イナゴ身重く横たわる」の方の歴史では、2015年どういう状況になっているんだろう?

2014年10月16日木曜日

平成26年10月16日

 ちゅうか、阪神タイガース、めちゃくちゃ強いやん。
 火山が噴火し、10月に台風、それもバカでかいやつ2週連続で来た年である。もう、こうなったら、日本一になって欲しいものである。

 まあ、このところ、PASSPO☆ばっか聴いている。
 根岸愛と森詩織の声に惚れてしまったし、基本的に聴く曲聴く曲エエ曲ばっか。そいで、聴いている・・のはいいのだが、何せ、最近のロックちゅうもん、まったくわからんので、たとえば、2012年の『ぱすぽ☆エアライン3部作』、「Next Flight」(エエ曲や)は「ぱすぽ☆meets LAメタル」、「夏空HANABI」(エエ曲や)は「ぱすぽ☆meets Japanese PUNK」、「WING」(エエ曲や)は「ぱすぽ☆meets German METAL」というふうになっておるんはエエが、LAメタル、German METALというのがオレには?????となんである。
 
 で、「ロックの歴史」という新書を読んだ。
 オレがキライな「ロック」の方の歴史であった。ザ・バンドやデラニー&ボニーを聴いて退屈じゃなかった人の書いた「ロックの歴史」であった。しかも、70年代前半までの「ロックの歴史」、しかも、オレより6つも年上の方の書いた「ロックの歴史」、大したもんである。

 この「ロックの歴史」読み終えて、ザ・バンドやボブ・ディランやデラニー&ボニーやデレク・アンド・ドミノスやジョージ・ハリソン三枚組聴きたくなったか、といえば、ぜんぜん、むしろ、もうこれからの人生、それらの音無しで生きていこうと決心したぐらい、で、ほとんどこの「ロックの歴史」では触れられなかったキンクスをむしょうに、聴きたくなった。やっぱ、大金持ちになってアメリカ行っていっぱいの ミュージッシャンのお友だちと一緒に、ドラッグにどっぷり浸かりながらチャラチャラロックして女房寝取られたり(ジョージ・ハリソンね)するよりも、やっぱ、そういうのは、夢見るだけにしといて、ロンドンは郊外高級住宅街マスウェルヒルに今はいるけど、生まれ育ったロンドン下町なまり(コックニーレベル)を捨てないで、ロックせなアカン(これがキンクスの名曲マスウェル・ヒルビリーズのホンマの意味だ、たぶん)。
 
 ま、オレは、この「ロックの歴史」とやらの「裏」行ったろうやんけ、と決心した。みなさんは素直にこの「ロックの歴史」に出てくるミュージッシャンを崇拝し立派な人生を歩みなさい。
 
 で、その後、スモール・フェセス聴きたくなり、そして、悪いことに、ハンブル・パイ聴きたくなった。
 
 しかし、ハンブル・パイ唯一持っているレコードが1971年のフィルモアのライブ、すぐには聴けないんで、CDでも買ったれ、とAmazon見てたら、きょうび、そのライブの完全盤、4回分のコンサートまるまるが4枚組CDで出てたんで、せっかくだから、それにして、それ聴く。
 甘かった・・・。
 4枚組ということは、「I Walk On Gilded Splinters」が4回分、きっちり入っとるということで、じっさい、入っていた。
 26分以上、もある曲である。
 高校時代、ハンブル・パイのフィルモアのライブ聴きまくっていた時も実は、一度も聴き通したことがない。長い曲がキライになった契機の曲である。
 今回も飛ばして後の曲聴いた。人間進歩なんかしない。

 もちろん、当時の熱気むんむんが伝わってくるライブで、レイ・チャールズのカヴァーの2曲(4枚組だと、ハレルヤが4回、I Don't Need No Doctorは3回となります)は、似たような演奏であってカッコ良すぎて、カッコ良すぎて、痛快まるかじり、今なお、ほれぼれしてしまう。ハンブル・パイがオリジナルにこだわらず、R&Bのカヴァーをカッコ良くロックロックした音で全力疾走でやってくれていたらなぁ、と思うわけである(注I Walk On Gilded SplintersもDR.Johnのカヴァーである)。

 あと、ついでにベスト盤みたいな、アンソロジー(Hot 'N' Nasty - The Anthology)ちゅうのも、聴いてみたら、1970年のサードアルバム(大地と海の歌)からの「Live With Me」 にハマる、ハマってハマって、もう、21回、聴いている。この程度の重さなら、オレでもなんとかなるんだけど・・・。

 まあ、けっきょく、LAメタル、German METALもわからんかった。けど、ロックちゅうたら、ぐだぐだの歴史読んだりするよりも、ブログでぐだぐだ書くよりも、下の動画が すべて(しもた、今日書いた内容、小分けにしたら、5回分ぐらいになったような気がする、詰め込んでわかりにくいだけ)。
 
ぱすぽ☆ - Pock Star ×3 Live





ロックの歴史-講談社現代新書-中山-康樹




Performance-Rockin-Filmore-Humble-Pie





Hot 'N' Nasty - The Anthologyディフィニティヴ・コレクション-ハンブル・パイ

2014年8月25日月曜日

横浜グラフティ

 朝一番で区役所へ行ったものの、ハンコが違っていたため取りに帰ったりして、2時間かかり、大開で用事を済ませた時には、もう、正午。

 ・・・PASPO☆の根岸愛(例えば https://www.youtube.com/watch?v=ZT-VhnFmu6A)に突然、惚れてしまう。フツーに美少女なんで、しゃあない。アイドリング!!!では、ルックスよりキャラ、升野英知との相性やモンな。




横浜グラフティ・菅 淳一


 横浜グラフティ、読む。

 なにせ、矢作俊彦の「マイク・ハマーに伝言」をもっとも人生で影響を与えた本、ナンバーワン、鈴木いずみ「ハートに火をつけて」をナンバーツーにしているオレなので、ちょっと心配したが、心地よいほどストレートに描かれており、ナポレオン党のリーダー「獅子丸」があの

浮谷東次郎

の伝説の16台ゴボウ抜きに、影響を受けてヨタハチを選んだという、くだりで、(これなら、ダマされてもいいや)とすぐに思えたので、もう、一挙も一挙、実は本屋で立ち読みし始めたら止まらなくなって、そのまま、読みながら、キャッシャーに持っていたぐらいである。

もったいぶってしまった。1967年、舞台はヨコハマ。1967年といえば、もう、「ヨコハマ」の最も旬の時代である。日本で名実ともにファッションも音楽も遊びも一番「とっぽい」時代である。分かる人には分かると思うが、たった1年違っても、1966年では早すぎる、1968年では遅すぎるのである。1967年のヨコハマを舞台にした、いや「してくれた」、著者には感謝しかない。

メインは、ボーイ・ミーツ・ガールで始まる胸キュンのラブストーリーだけど、なにせ、旬のヨコハマが舞台である、当然、伝説のナポレオン党出まくって出まくる、当然、伝説のゴールデン・カップも出まくって出まくるもんだから、当然、伝説のゴールデン・カップスも出まくって出まくる、当然、伝説のイカしててスカしたお姉ちゃんも出まくって出まくる(乱闘シーンまであるよ)、彼らを孫悟空並に町の端から端まで、好き勝手暴れまわさせている1967年の「ヨコハマ」という町があるのである。


 あと嬉しかったのは、著者の方々の当時のヨコハマの不良の方々に対してのリスペクト加減である。
 登場人物のいわゆる「物狂ひ」の状態が、丁寧に描写されている。
ナポレオン党のリーダーを始めとする、登場人物それぞれの、オモロいもん、に対しての「物狂ひ」ざまが丹念に描写されており、この部分は、実は、別に1967年じゃなくても、別にヨコハマじゃなくても、別に不良じゃなくても、別に若くなくても、いつでも、だれでも実行可能ではないだろうか? ただ、そこまで「好きなこと」があれば、なのだが。徹底的にやれば、いつのまにか、「カッコよくなる」、それだけだ。

あと、圧巻はやはり朝比奈峠での、レースであろう。まあ、こればっかは読んでもらわんと困る。こんな楽しいシーンあるだろうか。

ただ、オレが、(嗚呼・・・)と思わず、ため息をついてしまったのは、ラストシーンあたり、東京から来たという、女二人から、主人公と喫茶店のマスターが新発売ばっかになった資生堂のMG5を渡されるシーンである。(嗚呼・・・この時点で、ヨコハマは終ったんだ)と思った。だって、そして、ヒロインをモデルとしてスカウトし、東京に連れて行ってしまう。東京ではモデルとして、成功できそうだからだ。実はこの時点で、東京はヨコハマに負けたのである。東京の金物量作戦が始まったのだ。ヨコハマのカッコよさも金銭換算され、ワリのあうもんだけが、全国へ売りだされる・・・が、このあたり、著者は意識的なのか無意識的なのか、淡々と書かれており、忸怩たる思いに駆られた。矢作俊彦の「マイク・ハマーに伝言」に出てくる英二くんがおってくれたらなぁ、と思った。

 
 オレはヨコハマ生まれ、といっても、まあ、オレの場合、父親祖母が多忙のため、母親が実家近くの産院で生むためで、しかも、オレは生後すぐ家出する度胸もないヘタレだったんで、しゃあないのである。まあ、たとえ、あと、主人公と同じに7年ほど早く生まれ、生後すぐに産院脱走したとても、オレの性格から云うて、本牧や中華街よりも、黄金町あたりで、青春を送り、そのうち、あれやこれやで、大岡川に浮いていたかもしれん。
 合掌。



 

2014年5月19日月曜日

タイムマシンあっても、「はっぴいえんど」になんか、会いたくもない

 あっという間に、5月も後半。

しかし、今年こそは、プロ野球という時間ばっか食いストレスしか感じない、ケッタイな趣味から自由になれると思いきや、東京ヤクルトスワローズが6連勝、同率4位というありさまだ。もちろん、心の底から喜びたい、でも、でも、でも・・・である。正直、怖い。DeNa3連敗して、せっかく、「負けてもともと」という境地に達したというのに、どうすればいいんだろう?


読書メモ
・悪の出世学 ヒトラー・スターリン・毛沢東

悪の出世学 ヒトラー・スターリン・毛沢東 (幻冬舎新書)



海音寺潮五郎の「悪人列伝」のいわば世界編。
オモロい。
スターリンと毛沢東は馴染みなかったし、共産党という組織独特のルール(おそろしいよ)もあんまし知らんかったので、それはそれで、オモロかった。共産党では分派活動したら、粛清されても文句言えないんだ。
でも、やっぱし、悪役としてはヒトラーが一番だろう。ナチスが議会で過半数取れなかったのだが、「ある手法」を使って、現議席数のまま、過半数を取ってしまうところ(まあ、有名な話であるが)、背筋がゾクッとくる。あと、そうやって「ドイツ」を手にした後の粛清が、三島由紀夫の戯曲で有名な「長いナイフの夜事件」だ。ナチスの中の極右と極左の両端を一夜のうちで粛清して、ナチスを「中道」にしておいてからは・・・。ナチスは極右でもなんでもないのである。ヒトラーこそは民主主義を骨の髄まで知り尽くし、民主主義を骨の髄までしゃぶりつくした政治家であろう。
自分の気にくわない保守的な政治家を次から次へと「ヒトラー」呼ばわりして、罵倒して喜んでいると、きっと、とんでもないところから、「ホンモノ」が現れるよ。誰もが思ってみなかったところから、「ホンモノ」が。いやその前に、「スターリン」や「毛沢東」の方が先か。



・「本能寺の変 431年目の真実」読む。



本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)



最初かなり緻密に丁寧に史料を分析し、「おっ」と思ったが、「自説」を披露してからは、乱暴になり、史料や史実の都合の良い部分を抜き出しては自説の補強に務める。ま、よくあるパターンですわ。もちろん、「新説」であり、面白く、一挙に読めた。読めたんだが、読み終わって、なんかモヤモヤした気分。

・で、垂水の本屋ぷらぷらしてたら、なんと、「信長公記」の現代語訳があったんで、読む。


現代語訳 信長公記 (新人物文庫)


原文のヤツ、大昔、読んだんだが、かなが多く、人名が多く、3ページ読んだら寝てしまい、数ヶ月かかって読んだものの、内容が、あっという間に忘却の彼方へ。でも、「現代語訳」だ。もう、こんなありがたいと思ったことはない。もう、すいすいすらすらすいすいすいすい、まるで、乾ききった砂が水を吸い込むように、読めた。もちろん、注釈の方に首をかしげる部分がないことはない、でも、「本能寺の変 431年目の真実」読んで感じたモヤモヤに比べたら全然大したこと無い。

・創元文庫から出てて絶版状態で、ず~~~っと探していた「グリンプス」、ひょこり、新訳の文庫が垂水の本屋にあり、「信長公記」と一緒に。


グリンプス (ちくま文庫)


待たされたせいか(こっちが勝手に待っていただけだが)、読む衝動が消えてしまい、まだ、全部読んでいない。

読み始めて、日本のロック史から、ジャッキー・吉川とブルーコメッツも弘田三枝子も寺内タケシも、ごっそり抜けててもみんな平気な世の中に、今、オレは生きているんだとなぜかシミジミ思うわけだ。だって、タイムマシンあっても、「はっぴいえんど」になんか、会いたくもないし。

 「可愛い嘘」の頃の弘田三枝子がブルー・コメッツか寺内タケシとかを従え、全曲R&Bのビッグブラザー&ホールディングカンパニーやジェファーソン・エアプレインが裸足で逃げ出すようなアルバムを作っていた・・・なら、もう、ね。


2012年8月28日火曜日

「高校紛争-1969-1970」読書感想文


高校紛争-1969-1970-「闘争」の歴史と証言-小林哲夫

 スワローズ、ボロ負けの様相を呈してきたので、読書。読み終えたので、もう、すぐに読書感想文にしとく。すぐ書かな、アホやから、何日か経ったら、殆ど忘れてるもんな。例によって文章、ところどころ乱れるだろうが、しゃあない。

 大学紛争中の「高校」での紛争を事細かく記した本。まあ、この手の本はオレは大好きなのである。


 最初に著者の経歴チェックし、「あとがき」で確認。なんか、今の反原発運動に、高校生の「政治活動禁止」をからめてる・・・・あ、年下なのに、あっちがわの方ね。選挙前になったら、ミニスカ制服の女子高校生から、誰それに入れてね、とか云われたら、「入れる」ってつい云うてしまうと思う。オレは、やっぱ、高校生の政治活動は禁止した方がいいと思います。

 まあ、オレは高校時代から、ナショナリストでウヨクウヨクした、どうしようもない人間なので、あっちがわの方の本を読むコツは心得ている。まあ、あっちがわの方の本なら、こっちがわのツッコミを入れつつ読む。こちとら、阪神タイガースというイデオロギーで支配されたスポーツ紙から、ヤクルトスワローズを読み取る、という、資本論から、新自由主義を学ぶより難しいこと、日常的にやっているもんで、へーっちゃらである。


 オモロい。当時、全国のたくさんの高校でおきた「高校紛争」をできるだけ、事実に基こうとして、かなり詳しく書いてある。著者の主観がところどころ混じるが、そんな「悪質」なものではない。無ければ、もっとオモロカッたと思う。
 
 オモロい。まあ、思想的なややこしいこと全部度外視すると、実際、ワシらの世代はそれをしてもエエと思うから100%度外視すると、そっから見えてくるのは、「どうやって、高校をフルで遊べるか」というマニュアルとしてだ。マルクスか毛沢東かトロツキーの思想くっつけ日本そのものが悪いということにしたら、なんでも、オーケーというのは、今も、あっちら方面の方々そのもの。

 オモロい。読んでいると、時折、あの時代を総括するにはまだ時間がかかる、とか寝ぼけたことを云うてはる。こういう、あからさまに、しらばっくれる、から、オレなんか、イヤになる、あの世代って人は。


 簡単なことと思う。
 大学紛争でも同じなのだが、その「遊んだ」何年かに、何人、殺傷した?、なんぼ損害出した?、どんだけ、税金使った?、のべ何時間かけた?(オレは優しいから、なんぼの人の人生狂わせたまでは云わない)で、結局のところ、どんだけ、楽しめたの?、それだけだろう。答え一発、カシオミニ。5秒でできる。


 器物損壊はお手の物、校長や教師を吊るし上げる、高校の一室、もしくは高校まるごと、占拠して夜通し好き勝手する、封鎖だ封鎖。機動隊と思い切りケンカ、それに飽きたら、外へ出て、みんなでデモしていい汗かこうじゃないか。オレ、ワタシを縛り付ける校則や教師やテスト、いや日本の教育システム自体、いや、日本そのものが「悪」、「悪」は破壊してもいいし、ぶっ殺してもオーケー、だって、「悪」さえ無くせれば、革命成功、すべてあらゆるものが「善」の世界が待っている。その世界をめざして「悪」と闘うオレってカッコいい、「悪」に屈しないワタシって美しい・・・。究極の遊びである。もう少し安上がりに遊べた気がするが、「今、革命に参加しているという快感」は見当もつかんので、チャラなのかもしれん。まあ、なんとか、数値に置き換えて、答え一発、カシオミニ。5秒でできる。

 まあ、青春の思い出はプライスレス、それをごっちゃにするもんだから。
 この一番肝心なところ、この本も書いていない。

 こういう視点で書かれた学園紛争モノが皆無なのは、おかしいと思う。必ず、当時暴れた誰それが、その後の人生のあれやこれや、時にウェットに書かれている。高校時代、遊びきったんだから、つまりイソップでいうとキリギリス状態になるのは、しゃあない。小池真理子の本、絶対読まない、と思った。

 なぜか、高校の紛争、それも、校則を改定しろ、やらの紛争なのに、なぜか、既存のセクトが介入してたりして、不気味過ぎるわ。まあ、そもそも、戦後というか、共産党の方針転換によって、うじゃうじゃできた、サヨクのセクトなどややこしさはいろんな本で説明してあるが、アホなので、わからん。「信長の野望」のコーエーに是非とも、「サヨクの野望」という、どのセクトが無事革命成就できるかのシミュレーションゲームを作って欲しい。各セクトの規模や動員力、機動性、強さ、他セクトの相性とか。

 アマゾンレビューに投稿したら、多分、あの「参考になったと投票しています」ちゅうとこ、「X人中0人」確実な感想文になった。夏休みの宿題の「読書感想文」なら、不可まちがいなし。まあ、そいでいいのだ。


 著者並びに当時の関係者諸氏には不快な文章になったかもしれん。お詫びはしないよ。

  オレの母校では無いが、すぐ近所の高校、1970年、よど号ハイジャック事件の高校生メンバーを出し、その半年後には、その高校の正門前で紛争のあれやこれやで焼身自殺者を出した。当時、ハレンチな万博小学生だったオレは、近所のことゆえ、モロにズキーン! 極端な光(当時、よど号ハイジャック事件は小学生にとりカッコ良かった)と影。だから、こうした本読んでも、上に書いたような風にしか読めない身体なの。


  「おおきなもの」と戦おうとしてたのは、わかる。わかるが、アンタたちもまた別の何か「おおきなもの」に操られていたのではなかったのか?
 そして、なんで、「サヨク」だったの?

2012年6月12日火曜日

横山剣「クレイジーケンズ マイ・スタンダード」


クレイジーケンズ マイ・スタンダード

クレイジー・ケン・バンドの存在はもちろん、知っていた。そいでも、惹きこまれそうだったので、「敬遠」していた。あたりまえである。みんな、「ヨコハマ」という街の恐ろしさを知らん。

今、バリバリの本牧の現役の不良がやっているバンドである。ということは、つまり、その怖ろしい怖ろしい街、「ヨコハマ」が、長い歴史もひっくるめ、丸ごとで攻めてくるわけである。
わしは神戸の人間であるが、不幸極まりないことに、オレはヨコハマ生まれ(母親が実家に戻って近くの病院で出産したため)で、しかも、2年は野毛の花咲町に住んでいたこともあるのだ。メリーさんも知っているし、吉田衛氏生存中の「ちぐさ」だって行ったことあるんだ。
そんなオレが万が一でも、クレイジー・ケン・バンドにイカれたら、神戸も何もかも放り捨てて・・は、もったいないから、換金して、寿町でも黄金町でも、引っ越し、ともかく、しばらく、中華街で三食取ってヨコハマの人間になろうとするだろう。その上で、ライブに行ったり、CDをクルマで大音量で聴くことであろう。

読んで、もちろん、横山剣氏のいわば自伝であるから、金網のフェンスの向こうにあったもう一つの「ヨコハマ」の胸を引き裂かれるような、ウットリするような昔の話もには、素直に胸をきゅんきゅんいわせて(オレがそこにいなかったクセに何故か懐かしい)、幼い頃の父親との旅行の話とかには、素直に涙ぐみながら、またヨコハマの不良特有の武勇伝には、血をたぎらせながら、また、音楽遍歴バンド遍歴には興味をかきたてれられながら、読んだのだが、やっぱ、オレが嬉しかったのは、音楽そのものに関する以下の部分である。全部挙げていくと、相手は現役のミュージッシャン故、キリが無いので、オレが一番頷いた順に3つだけ。

・キャロルの「甘い日々」が好きでカヴァーしたこと。
・女性ヴォーカルには、「コブシ」が無いとアカンということ
・「聴いた音その音に得体の知れない何かが含まれている、その感じもまたおれの感じるロックンロール質なんだ」(P.469より)

クレイジー・ケン・バンドがキャロルの「甘い日々」をカヴァーしていたなんて知らんかったし、まだ、聴いていないが、キャロルの「甘い日々」、もう、女性のセリフがからむとこなんか、最高にオレも大好きなので、なんか、すごく嬉しい。

2つめは、オレの用語では「パンチ」。

3つ目は、ちょっと、ご覧のとおり、このブログ、停滞気味で、「だいたい、音楽聴いて、感想文垂れ流すんはアホとちゃうんか」と思い始めていたのだが、そう、そーそーそー、音楽を聴いて、「得体の知れない何か」を感じてしまった以上は、やっぱ、その「得体の知れない何か」のことを書かなアカン、もちろん、今までの経験上、「得体の知れない何か」のことを書こうとすればするほど、余計「得体の知れない」もんになり、最後ぐしゃぐしゃにしてまうのだが、そいでも、やっぱ、やらなアカン、音楽聴いて、ソレを感じたら、やっぱ、やらなアカンわ、音楽を聴くだけの人間だからこそ。

次から次へ「得体の知れない」のにレッテル貼って、あらかじめ用意してあるたくさんの箱のどれかにぶち込んでいって、わかったようなフリするんはカシコのプロの評論家にまかせておけばエエのである。

2012年5月10日木曜日

隆慶一郎にハマる

福地寿樹!!!

連休中から、隆慶一郎にハマっている。「隆慶一郎」病がぶり返したというべきか。

再読ながら、「捨て童子・松平忠輝」上中下、ほぼ一挙に読み、柳生絡みの短篇集をいくつか読み、こうなると、一番好きな「影武者徳川家康」にしようかと思ったが、未読の「花と火の帝」を読み始めた。これが、嗚呼、徳川幕府黎明期の「和子入内」を巡る将軍家VS天皇家という史実の世界に、超人的な肉体、忍法はもとより、呪術さえも操る天皇の隠密(もう、殆どエスパー!!)たちの活躍で史実と史実の間を埋めようという、どないしても、血が湧いて、肉が躍ってしまう小説だ。


「徳川家康」(今回の家康は世良田二郎三郎じゃない)像はちょっと異なるが、隆慶一郎最大の悪役「徳川秀忠」やその手下「柳生宗矩」は健在、天皇の隠密四人のトボけた感じ、後水尾天皇のあまりにも魅力的なこと、もう、あまりの面白さにページをめくるのを忘れるが、隆慶一郎氏の絶筆ゆえ、中絶しているのを思い出し、読み終えてしまうのが怖い。


これというのも、NHK大河「清盛」が「盛りすぎ」で、オチのないコントの連続みたいな感じで落ち着かないお陰である。

ただでさえ、ややこしい、天皇上皇のあれやこれやに、待賢門院美福門院のあれやこれやが絡み、これまたややこしい、公家間のあれやれやこれや、もちろん、平家自体もややこしいあれやこれや、これだけでもエエのに、何故か源家のこれまたややこしいあれやこれやをかてて加えて、しかも、それらを一回の放映分でちょこちょこ同時進行するという、わけのわからん作りになっている。

45分で、5分ほどの「断片的」なストーリーが連続する。つまり、すき焼きをちょいつまんだかと思うと、水炊きをちょいつまみ、キムチ鍋をちょいつまみ、ブイヤーベースをちょいつまみ、みたいな感じで落ち着かん。しかも、最悪なことに、それぞれの鍋の材料、つまり、キャスティングは、NHKらしく、成金的な贅沢なキャスティングなので、余計ややこしい。
しかも、物語のナレーションを、変に凝ったため、こともあろうに「源頼朝」公にさせているから、そのややこしさは致命的である。

そこまで凝っているくせに、肝心要の主人公「平清盛」は、元服済んでも顔が汚れているのに気がつかない阿呆で、坂本龍馬タイプのすぐに興奮して大声出すだけの「バカ」ときているから・・。
伊東四朗や三上博史中井貴一深田恭子に喰われるは仕方ないとしても、他の殆どの役者にも「喰われて」しまっている。どんどん、回が進むに連れ、新しい役の俳優が登場するたんびに、主人公は「喰われ」、どんどん、主人公の影が薄くなっていく・・・というのは、オレがいうのもなんであるが、冒険しすぎではないか?

毎回のように、変な節の「遊びをせんとや・・」がすぐにBGMで流れ、やたらわけのわからん和歌出てきたり、いつも土埃が立って視界が悪くぼやけている・・・と云えば、もう、60年代後半流行ったサイケムーヴィ、ドラッグムーヴィのノリである。  こんだけのことを詰め込んだのは、スゴいと思うし、実験的と云えば実験的、冒険的と云えば冒険的。まあ、NHK大河ドラマとしては、完璧に破綻しているが。視聴率を上げようと思えば、源家か摂関家あたりのエピソード丸ごと切っちゃって、余計な登場人物整理するしかないと思うが、成金NHKにそれだけの度胸があるとは思えん。


観ていて何度も、いっそのこと、ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」、読んだろか、と思ったくらいである。「ユリシーズ」の方がこの「清盛」より、シンプルだろう。まあ、隆慶一郎、読み返すことにしたが。

花と火の帝(上) (講談社文庫)
花と火の帝(下) (講談社文庫)

2011年12月19日月曜日

「上杉謙信の夢と野望」読書感想文

上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)

久しぶりに読書感想文。
読んでホッとした。タイトル通りの内容であった。これがアタリマエじゃなくなっているから、世の中、怖ろしい。
以前、「新書」の歴史もん、楠木正成なんちゃら、というのタイトルに惹かれ、読んだら、戦前の教科書批判つらつら、ある「思想」にハマっている方が、いかにも書きそうなことをいかにも書いてあったので、うんざりしつつも読み続け、ようやっと、楠木正成公の歴史が始まるかと思ったら、九州の名も知らん「悪党」のことをつらつら書いてあって(論文みたいだった)、結局、「戦前の教育はいかに皇国史観に支配されていたか」というのを、もう一つの凝り固まった「史観」からつらつら批判してあっただけ、というタイトルと内容が違う、ひどいのがあって、以来、タイトルだけで手を出さないようにしていた。

上杉謙信、名前は知っているが、実際、ほんまのとこ、何をしたか、何をしたかったのか、というのはわかりにくい。大きな流れ、ちゅうのは、せめて、知っておきたい。
特にオレのように、ゲーム「信長の野望」で鬼のように強い上杉謙信の軍にこっぴどくヤラレているから、印象に残っている程度、あと付け加えるなら、新田次郎の「武田信玄」とかの他の武将を主人公とした小説や過去もろもろの大河ドラマの中の登場人物としての「上杉謙信」としての印象ぐらいしかない。「天と地と」を読んでいないのは、致命的である。

織田信長に凝った時、あれやこれや読んでみた結果、だいたい、戦国時代のたとえ有名な武将でも、学会で決められる「史実」はともかく、「事実」はほんまのとこ、絶対わからないのが、結論であった。
 まあ、下のような、理由による。

・ほとんど、リアルタイムの史料が残っていない
・江戸時代の軍記物は、アテにならないのだが、かなり人口に膾炙してしまっているため、何度も引用されまくった結果、「史実」かのように誤解されている
・同じく、先祖のことを書いた「家譜」の類もアテにならない(そりゃ、ご先祖様の都合の悪いことは端折ったりするわなぁ)
・ かてて加えて、マルクス史観やら憲法9条史観とかで、それらに都合の良い解釈が加えようもんなら、読んでるコッチはワケがわからなくなる
 
ちゅうことだ。

 そういう状況の中、この本の著者は、なるべく信用のおける史料を元にある程度の考察や推論を加えながら、フツーに上杉謙信の一生をフツーに記す、というホンマは一番しんどい作業をやってくれている。

 上杉謙信の人生、あれやこれや書くとエラいことになるので、オレが特にオモロイと思った点だけあげるが、この本は、上杉謙信が終始、「室町幕府」の権威回復によって、戦国時代を終わらせようとしてたのではないか、といいう考えに拠っている。その考えで、関東管領になり、室町将軍派の関東武士を結集し、十五万の兵で、北条氏康の小田原城攻めたことや、ど戦国時代のまっただ中、5000の兵を率い、越後から上洛を果たす、という、どちらも一戦国大名に取りあまりにも負担が大きすぎ行為をあえて行ったか、説明できるのである。上洛しても、当時京を実質支配してた三好長慶=松永弾正久秀らと一戦交えるではなく、小田原城攻めは完全な失敗。また、越後から上杉謙信がおらんようになると、武田信玄があれやこれや活動し始めて、邪魔をする、ちゅうわけだ・・・・ホンマ、ナンギやなぁ。そのありさまを見ていたか見ていなかったか、織田信長は、将軍に利用されるのはなく、「道具」として、利用し、使い物ならなくなったらあっさり捨てて、天下統一をはかっていくのである。

 ということで、オレのようにゲーム「信長の野望」で上杉謙信を好きになったような人間にとり、この本は、オススメである。

 上杉謙信のある程度の知識を得ることができたので、これで、「天と地と」もオモシロく読めるというものである。

2010年7月19日月曜日

夢野久作の「犬神博士」

 

"犬神博士 (角川文庫)" (夢野 久作)

 ボロ負けの3連敗。9連敗時のチマチマした負け方じゃないので、まあ、良しとせなあかん。

 昨日、負けた後、夢野久作の「犬神博士」、何十年ぶり(オレもこういう時系列を語ることができるのであーる)に、読む。まさに、愉快・痛快、奇々怪々。スカッとする。

 まさに、主人公の犬神博士の幼少時代のチイちゃんと一体化して、心の中で、はしゃぎまわって、読んだ。読んだあと、スポーツをした後に感じるのに似た爽快感にひたる。本を読んだ後の感じではない。未完なのであるが、この読後の爽快さは、すばらしい。角川文庫の場合、解説先読んだら、ぜったいオモロイ小説とか思えないので、最初からは読まない方がエエ。のっけから犬神博士のこてこての九州弁による名調子を楽しむうちにドッとひきこまれていく。
 「ドグラ・マグラ」とは真逆の世界と云えるかも知れん。
 7才あたりの女装のチイちゃんが当時のオトナの世界、それも博打打ちやら芸者さんやヤクザや知事や右翼の大物たちを持ち前の深い観察力と小さなからだで、引っかき回すわけだから、ツマランわけはない。

 最初読んだ時は、レゲエも聴いていなかったし、今のように歌謡曲の知識なんぞ殆どなかったから、読み飛ばしていた部分、今回、読み返してみて、明治初期頃の、「芸能人」というものがいかなる存在だったかというのを再認識できた。この前、「日本の下層社会」ちゅうのを読んでただけに、当時の「芸能人」の生活ぶりがわかって、興味深かった。女親が三味線、男親が鼓とヴォーカル(といってもこの夫婦はチイのホンマの両親ではない)、でチイちゃんは女装したダンサーちゅうわけだ。天才的な踊りのチイちゃんとかなりの名手である男親の間には、いわば音楽的な共感があるのであるが、このあたりの描写の巧さは、さすがに夢野久作ちゅうもんや。

 ということで、今回読んでいて、一番、ノリノリになったのは、知事をはじめとする福岡の名士たちが一同勢揃いした座敷での、酔っ払った7歳児のチイちゃんが、ノリノリで踊りまくり、ほぼ全員がそのノリに巻きこまれ、やがて、お座敷のみんなが音楽的な狂気のまま、踊りまくっていくとこであった。ただ悔しいのは、「かっぽれ」あたりはオレも知っているのだが、この小説でほぼテーマミュージックと云って良い「アネサンマチマチ」がどんな曲かわからんのが、悔しかった。歯がゆかった。

何故かと言うとこの「アネサンマチマチ」は巡査が絶対に来ない村でしか遣らない一曲であった。つまりこのアネサンマチマチの一曲までは頗る平凡な振り付けに過ぎないので、普通の女の身ぶりで文句の通りのアテ振りをして、おしまいに蚊を追いながら、お尻をピシャリとたたく処で成る程とうなずかせるというシンキ臭い段取りになっていたのであるが、しかし是はその次に来る「アナタを待ち待ち蚊帳の外」の一曲のエロ気分を最高潮に引っ立てる前提としてのシンキ臭さに外ならなかったのだ。だから、お次の「アナタ待ち待ち」の文句に入ったら最後、ドウニモこうにも胡麻化しの絶対に利かない言語道断のアテ振りを次から次に遣らねばならない。そうしてそのドン詰めの「サチャエエ。コチャエエ」の処でドット笑わせて興業を終る趣向になっているので大方男親の手製の名振付だろうと思うが、タッタこの一句だけの要心のために吾輩が、いつも俥屋の穿くような小さな猿股を穿かされているのを見てもその内容を推して知るべしであろう。恐らく吾輩が好かない踊りの中でも、これ位不愉快を感ずる一曲はなかったのである。
 しかし吾輩が如何に芸術的良心を高潮させてみた処が、一円銀貨の権威ばかりはドウする事も出来なかった。今更に最初の約束が違うと言っても追付く沙汰ではなくなっていたので、泣く泣く男親の歌に合わせて「アネサンマチマチ」を踊ってしまって、ビクビクもので茣蓙の上にペッタリと横坐りしながら「アナタを待ち待ち」に取りかかっていると、まだ蚊に喰われないうちに、果せる哉、群集のうしろで、
「コラッ」
 という厳
いか
めしい声が聞こえた。同時にガチャガチャと言うサアベルの音が聞こえたので、吾輩はすぐに踊りを止めて立ち上った。群集と一緒に声のする方向を振り返った。

[From 夢野久作 犬神博士]
 な、な、こうまで書かれたら、「アネサンマチマチ」聴いてみたくなるちゅうもんや、で。イヤ、踊りひっくるめて観てみたい。

2010年4月23日金曜日

三島由紀夫・新潮文庫「サド公爵夫人・我が友ヒットラー」

 勝つときはあっさり勝つ。あっさり過ぎ・・・ちゅう気もせんではないが。久々の悦び。これで、競り合いに強くなればなあ。

 最近、三島由紀夫に傾倒しとる。フツーなら「ハマっている」と書くところだが、やっぱ、オレも人の子、ちょっと文学的に気取ってみたいのであーる。云うても、「金閣寺」や「仮面の告白」或いは「豊饒の海」とか三島由紀夫三島由紀夫したヤツはさすがにしんどい。三島由紀夫ちゅうても、俗な部分、フツーの女性週刊誌に連載していた作品群とかもあり、それはそんなに重くもなく、文章もいちいち辞書引張らなあかんかったり、使ってある単語ひとつひとつから思いクソ想像力膨らまさんとあかんかったり、或いは読後数日は、三島由紀夫モードになり、生まれた直後の記憶を必死にたどろうとしたり、ライターの火をみつめて、発情せなあかん、とか思ったりせなあかんかったりする必要はない。

 安部譲二つながりで「不思議な彼」(ご存知のとおり、作家安部譲二氏が若い頃がモデルの小説)を読んだら、すんなり読めて、調子にノってしもた。
 あと、短編集で、「憂国」読んだら、最高級のポルノであったので、調子づいた。おもろい! あと同じ短編集に載ってた「卵」という作品にはガツーンといかれた。ショートショートやん。百万円煎餅、
 ワシら世代は小学生六年生に三島由紀夫のあの事件があり、もう、それはそれはかなり偏見を持っておったのだ。ど右翼の狂人、という感じである。まあ、しゃああない、小学生である。それに悪いことに当時は朝日新聞ようやっと読めるようになっていた。
 それに題名が題名なヤツが多い。例えばこんなふうに・・・・

 ・憂国 もちろん。右翼礼賛小説
 ・我が友ヒットラー もちろん、ヒットラー賛美小説 (戯曲であるがもちろん、そこまで知らんかった)

 というふうに読みもしないのに勝手に題名から連想して思ってた。 私設軍隊を持ってた人なのである。
 後世の紹介記事とかでも、褌一丁のモノクロの写真とかが必ず一緒に乗ってたから、多分、雑誌で言うと「さぶ」とかの世界の人とも思ってた。
 さて、ちょっと前、「我が友ヒットラー」読んだ。
 おもしろかった。
 どこが、ヒットラー礼賛だ。ヒトラーというだけで、拒否反応おこしたらアカンかった。1945年までのホンマの国家単位の狂気の布石が打たれた、1934年夏の事件をわかりやすく説明してある。登場人物のキャラ立ての上手さはもちろん、言うまでもなくスバラしい。

 「政治的法則として、全体主義体制確立のためには、ある時点で、国民の目をいったん「中道政治」の幻で瞞着しなければならない。それがヒットラーにとっての1934年夏だったのであるが、そのためには極右と極左を強引に切り捨てなければならない。そうしなければ中道政治の幻は説得力を持たないのである。」(三島由紀夫・新潮文庫「サド公爵夫人・我が友ヒットラー」P・232「自作解題  作品の背景我が友ヒットラー」より引用)
 極右のレーム、極左のシュトラッサー、それをたった一晩で粛清してしまうのであるが、シュトラッサーの狡智さをはねのけるレームの忠犬ハチ公的心情が泣かせる。
 おもしろかった。


 でね、以下は妄想なので、真に受けてもらっても、困るし、野暮だからやめてほしいのだが、でね、「極右と極左を粛清して「中道」で全体主義体制を確立する」、なのだが、ふと、60年代後期の我が国にあてはめてみると、極左は1969年1月の安田講堂落城(いやむしろ、衝撃の度合いから1972年のあさま山荘事件か?)で、そいで、極右は、他の誰でもない1970年の三島由紀夫のあの事件で、ワシら一般ピープルの意識から除外されたわけで、ヒトラーのように自らの手を汚さずとも、当時のウチの国はそれぞれが勝手に消えていったわけで、やっぱ、なんかわらからんがある種の「全体主義体制」が確立してしもたのではないだろうか? でね、最近、そのウチの国独自の「全体主義体制」が崩れ、格差が生じ、みんな派遣切りはアカンとか 貧困化とか云うて慌てているのではないだろうか????、と穿ってみる今日この頃。
 でねでね、せっかく壊れかけているのに、また新しい「全体主義体制」作ったりしたら、イヤや。

2008年9月16日火曜日

山城新伍の「おこりんぼ、さびしんぼ」

 今日は月がきれいに見えた。十六夜か十七夜とかだろうか。連休中は野球など観ず、読書してた。いやぁ、スワローズが弱いと、カシコになりますなぁ。最近は吉田豪という人の影響で、タレント本よく読んでいるのであるが、やっぱ、オモロイもんはオモロイ。

 山城新伍の「おこりんぼ、さびしんぼ」、若山富三郎・勝新太郎兄弟とのつきあいでのエピソードがどんどん連ねてあるのだが、傑作である。
 山城新伍は知ってる人は知っとるが、映画の人である。特に東映時代、若山富三郎の子分だっただけあって、若山富三郎のエピソードのどれもが抱腹絶倒、月並みな単語なので使いたくないのだが実際、くすぐり、笑い、爆笑・・と来て、まあ、ここで終わるところが、ここから、かさにかかってきて、爆笑の二乗三乗、文字通り「抱腹絶倒」してしもて、苦しくなってしまった(キーワードは京都帝大)。勝新のエピソードも、若山富三郎とのエピソードが無ければ、それなりに笑えたと思うが、勝新の場合、同じようなバカやっても、演じている部分があって、そこんとこが・・・。

 おもろうて、しかもやがて哀しき、という感じで、この兄弟はもちろん、彼らの活躍の場である映画に関しては並々ならぬ思いれのある山城新伍、はひはひはひのキャラを越えて、最後は泣かす。


 林真理子の小説「RURIKO」と同じ感想になるが、やっぱ、ウチの国から独立した産業としての「映画」が失われてしまったことが残念でならない。
 十数年後あるいは数十年後、老いたキムタクを始めとするジャニーズの連中がまだ、スタアやっているのだろうか?映画の役作りに熱中しすぎて、狂気の淵ぎりぎりに立つ「凄味」みたいなもん出そうとするだろうか。


"おこりんぼさびしんぼ (廣済堂文庫 ヤ 8-1)" (山城 新伍)

2008年8月19日火曜日

浦沢直樹の「20世紀少年」

 朝夕、ちょっと過ごしやすくなったか、と思わせるぐらい風が吹くようになった。
 
  まあ、星野監督は名監督と云われているが実は・・・ちゅうのを書こうと思ったが、今日のヤクルト讀賣戦のあとではよう書かん。

 休みの間、浦沢直樹の「20世紀少年」(完結編「21世紀少年」上下あわせて、全24巻)、読み返そうと思ったが、途中であんましにも腹が立ってきたので、やんぴ。そのかわり、広瀬正の超名作「マイナス・ゼロ」を数十年ぶりに読みかえした。

 「20世紀少年」、だいたい、何巻か費やして、ようやっと、ついに次に「謎」がわかるかと思って、ワクワクしながら、ページをめくると、全く新しいエピソードが始まって、「謎の解明はどうなったの?」と思うが、その次のエピソードがそこは浦沢直樹の天才なところだろう、オモシロいので、ついつい、その新しいエピソードにひきこまれてしまう。これが、3回以上あったように思う。あんましにも、この手使うから、読み返した場合、もの凄く腹が立ってくるわけよ。

 小学校の時、遊んでた連中の中から、世界征服するヤツ(ジンギスカンかよ?)がおり、それを残りが「正義の味方」となって、 阻止しようとする・・・この設定はホンマ、スゴいし、最初の頃のまるで悪夢のような雰囲気は素晴らしい。でも、ひらたくいえば、まあ、数十年に渡る「同窓会」物語とも云え、そこの部分に酔ってしまった感じがするのだ。
 
 オモシロいのは、「よげんの書」までであとの「しん・よげんの書」以降は蛇足にしかおもえん。  
  映画も近々公開されるそうだが、マンガ読んでた時感じた「長すぎる・・・」感がなくなれば、スゴい作品になるだろう。

2008年7月31日木曜日

浦沢直樹 PLUTO―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より

 都賀川というから、ピンと来なかったが、なんのことはない、大学時代慣れ親しんだ「大石川」なのである。
 オレも須磨の川の近所に住んでたことあるが、今回ほどではないが、はーるの小川がそよそよ行くよ状態からあっというまに濁流状態になり氾濫したりするのを何度もみてきた。自然、ちゅうのは、怖いのである。水と親しむ、とかキレイ事も大事だが。合掌。

 浦沢直樹「PLUTO」読む。第6巻が最新で昨日出たんで。第一巻から一挙に。
 読むなり、涙腺がゆるゆるになってしもぅた。まあ、ワシら世代にとっては、鉄腕アトムというのは特別なのだ。
 もちろん、「鉄腕アトム 地上最大のロボットより」とあるが、リメイクというか、そもそも、パンツ一丁で暴れ回り飛び回りおまけにケツから機関銃が出てくるのがトレードマークのアトムなのに、フツーに服きたまんま飛んでしまう。もうここまで変えてしまうと、基本設定だけを借りたまったく別の作品としかいいようがない。それでも、だ。やっぱ、胸がわくわくしてしまう。物心つく前から、絵本代わりに雑誌「少年」を読んでたオレ だからしゃあない。

 読んでて気がついたことは、擬人法ならず、「擬現実法」とういか「擬現在法」、実際に起きたことをフィクションに見立てて、どんどん進めていくので、その術中にまんまとはまると、途中で読むのをやんぴできなくぐらい面白さを堪能できる。ただ、逆に現実のイメージがせっかく構築したフィクションを台無しにしてしまうこともあるのである。
 たとえば、「憎しみの連鎖」とか、イラク派兵の時、筑紫哲也がしきりに云うとったセリフやんけとシラケたり、とか、お茶の水博士が気配りのおっさん(鈴木健二)に似とるとか、イラクのフセイン前大統領なんか、そっくりというより、そのまんま、登場したりして、興ざめたりするが、いや、まあ、そういうところに差しかかったら、肘を伸ばして、遠ざけて読めばエエのだろうが。

 どうせ、一夜漬けみたいにして読んだのだから、感想文はこのくらいにしとく。いかなる形態であろうが、今の今、アトムのあたらしいのが読めること以上のしあわせなことはない。
 ただ、単行本の場合後ろに解説がのっているのだが、
 1951年生まれの村上知彦のヤツは殺意を覚えるほどの違和感さを感じたし、夏目房之助(1950年生まれ)はさすがと思う一方、致命的なずれを感じ、逆に、オレと同じ1958年生まれの山田五郎のは、読んでて、なんども腕を組みうんうんと頷いたもんである。 西原理恵子のは、まったくそのとおりと思う。確かにロボット書くの下手・・・いやいやいや。
 このオレが感じた解説書いた人とのあれやこれやは、幼少時、アトムがええもんのままで大人になってアトムから離れた人と幼少時正義の味方の象徴だったアトムがいきなり狂って暴れまくりメチャクチャしてしまうのに遭遇してかなりのショックを受けてアトムに一度は幻滅してしまった人との差かもしれん。

 オレより後の世代になると、どっかの時点で、プリウスのCMに出てくるようなアトムのイメージオンリーになってしまう。
 1960年生まれの浦沢直樹はどうなのだろう? 

 最後に元に戻って浦沢直樹「Pluto」への注文、「今からでも遅くない、ウランちゃんをパンツ一丁にさせてくれぃ」


"PLUTO (1)" (浦沢 直樹, 手塚 治虫, 手塚 真)


"PLUTO (2) ビッグコミックス" (浦沢 直樹, 手塚 治虫)


"PLUTO (3) ビッグコミック" (浦沢 直樹, 手塚 治虫, 手塚 真)


"PLUTO 4 ―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (4)" (浦沢 直樹, 手塚 治虫, 手塚 真)


"PLUTO 5―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (5) (ビッグコミックス)" (浦沢 直樹, 手塚 治虫)


"PLUTO 6―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (6) (ビッグコミックス)" (浦沢 直樹)


2008年7月13日日曜日

「傷だらけの天使—魔都に天使のハンマーを」補遺

 暑くて暑くて。たまらん、たまらん、たまらんぜ、たまらん転けたらみなこけた、ちゅうぐらい暑い一日でした。

 スワローズ、勝つ。最近めっきり調子を落としている「監督の息子さんよりスター性のある選手のいないチーム」に。しかし、「優勝をのがすたんびに腹立ち紛れに金にあかしてスワローズのみならず他チームからええ選手ばっか取っていくチーム」も3連勝してしまっている。「優勝するたんび、何故か日本がおかしくなるチーム」は無慈悲にもせっかく最近調子が上がってきた「年俸が12球団一低く2千万にも届かないチーム」を負かしとる。

 NHKの連ドラ「瞳」、人がせっかく、次の「ローズマリー」と「ブルーシューズ」のダンスバトルわくわく期待して観とったらのに、先週は小池栄子が出てきて、それも、小池栄子をとことん説教したくなってたまらなくなるような話の展開に。

 ちゅうことで、この燃える気持ちどうしてくれようと、久々にヒップホップ黎明期の名作「WildStyle」と「Beat Street」観て気持ちを静めた。
 映画としてはあんましどうのこうのちゅう映画じゃないが、やっぱ、元気出るわ。
 お坊ちゃん体質のわが国、なにか事件があれば「格差社会」に矛先向けておしまい、だが、両方の映画で共通する殆ど荒野と化したブロンクスあたりの風景(ビルの持ち主が保険金目当てに放火しまくってでけたスペース、焼け残ったビルに勝手に住んでいる)をみると、今のウチの国の格差など、まだまだ、だと思う。それが証拠になんら新しいムーブメントが生まれてきていない。もっともっと格差が広がれば、もっともっと誰も思いもしなかった新しいもんが生まれる筈である(もちろんエゲツない事件もたくさん発生するだろうが)。「格差社会」、ホンマ、カシコからバカまで判で押したように、暗いことしか云わないからよけい暗くなるばっかだが、負の部分ばっかじゃない筈。

 つうことで、ようやっと本題、Googleしたら、けっこう、オモロイのが見つかったんで、忘れんようにリンクしときますわ。

「傷だらけの天使—魔都に天使のハンマーを」補遺

Podcast書評(ショートドラマあり・・・しょぼい)

傷だらけの天使—魔都に天使のハンマーを(新刊ラジオ 第543回)

[From 「傷だらけの天使—魔都に天使のハンマーを」矢作俊彦─新刊ラジオ by 話題の本や新刊を耳で立ち読み!新刊JP]

小説だけの話ではなく、ホンマになんとまあ、未だ残っていた・・・

木暮修(ショーケン)の暮らすペントハウス

[From retour&Retour: 代々木『傷だらけの天使』のビルは、今も傷だらけです。]

 矢作俊彦、もう俊ちゃん、と呼べないようになってしもた。近来、ホンマ不自由なく新作が手に入るのは喜ばしい限りだし、フツーの小説よりオモロイし、スケールもでかいし、各方面で大好評で、それはそれで、いいのだろうが、例えば

「ベルギー製の鋼鉄の感傷的な冷たさに触れた「令羽」の左手が、ベッドに捨てた黄色いリヴォルヴァーを想って、細かく震えた。令羽は、なんだか立派な友達を失ったみたいな気になって、ポケットの中で小さく怯えた。」(「抱きしめたい」単行本「神さまのピンチヒッター」収録より引用)

 みたいな、読んだ後鳥肌が立ち、その鳥肌が立ったまま、そのまま動けなくなるような絞りに絞りきった感触が懐かしくなることがある。このところの、日本のあれやこれや世界のあれやこれやも詰め込んだぶ厚い長編も、いいんだろうけど、やっぱ、アクアスキュータムのコートでも天上遙か手に届かないと思える時代の狭くてドブ臭いヨコハマを舞台に自分の肉体しか信じないガキが山手の令嬢にええカッコするためや難解極まりないこだわりのために命がけでドンパチする話も、読みたいなあ、と思ったりする。

2008年7月10日木曜日

傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを

 スワローズ負ける。うーむ、前途多難。
 「傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを」、不良読本の方、まだ、読んでいないが、かなり加筆訂正されているという新刊で、読んだ。
 一挙に読めた。
 泣けた。
 それよりなにより、ドタバタシーンは「気分はもう戦争」以来の、爽快痛快大爆笑、最近の矢作俊彦から失われてた部分が戻ってきた。


 読み終わって、岸田今日子が亡くなったことが猛烈に悲しくなってきた。悲しいちゅうても、口惜しすぎて、悲しくなってくるのだ。
 岸田今日子がいないと、この小説の実写化は無理だ。他のいかなる女優が「綾部貴子」やろうとも、「綾部貴子」になりえないのがこの小説を読んでいるうちにわかりすぎるほどわかった。
 岸田森も西村晃も亡くなっており、惜しいけど、まあ、妥協しよう(岸田森ももちろん換えがたいが小倉智昭なら代役可能だろう)。当然、石原慎太郎も出て欲しい。あと、若い頃の小林旭も是非とも出て欲しい・・・皮肉なことに水谷豊は、今ぶいぶい云わしとるのに。
 矢作俊彦の新刊、ちゅうても、アキラ抜きのショーケンと岸田今日子の「傷だらけの天使」の最新作、ちゅう部分がどないしても、強い。けど、まあ、贅沢云わんとオリジナルキャスト、ショーケンだけで他は誰でもエエから、映画なりスペシャルの2時間ドラマ(おさまらんか)で実写版がみたい。

 

"傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを" (矢作 俊彦)


 

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