2008年8月8日金曜日

YouTube - タモリ 赤塚不二夫さんへ 弔辞

合掌。

「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほ んのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代 は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになか った作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑い の世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことを やっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっき り覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出 来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わ りに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにい ろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな 決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き 合いが始まりました。

 しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん 騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語 ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあな たに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っ ています。そして、仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り 込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あな たがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もあ りました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々 あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言 葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な 笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこ ちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼ れ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』と また高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かして いったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れるこ とです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は 前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなた は見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした 何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しい ことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山 の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、 一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつ き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞 で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグな のかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんで した。

 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉 親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらな かったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今 お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうござ いました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義 」

[From YouTube - タモリ 赤塚不二夫さんへ 弔辞]

これでいいのだ。

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