2007年7月1日日曜日

スーパー・スターとしての三島由紀夫

この前書いた、アマゾンのアフェリエイト、過去の履歴調べたら、なんか、やっぱ、自分で買った分はさっぴかれているみたい。ま、世の中、そんなもん。

 二週間かけて、ようやっと、「平凡パンチの三島由紀夫」を読み終える。





平凡パンチの三島由紀夫 椎根 和


 二週間もかかったんは、つまんないからじゃなく、オレの基礎的な知識不足とDVD観ててそのまま眠りこけることが最近多く、読書の時間そのものが少ないからだ。つまんないどころか、今までのオレが持っていた三島由紀夫 像が次々と壊れていって、それが快感で、めっちゃオモロかった。

 作者は当時の平凡パンチの編集者。この本の作者は、オレを始めたいていの人間が今まで三島由紀夫に抱いていたイメージ、つまり、「床の間あたりに敬して遠ざけて薄暗い人物」像を見事ぶっこわしてくれた。そして、そのかわりに、「光彩陸離たる魅力を発散させていた」”スーパー・スター”としての「三島由紀夫」を見事に蘇らせてくれた(「」部分は同上書の「あとがき」より引用)。
 
 これでいいんである。

 だいたい、死に方が死に方だったんで、当時小学六年のオレとしては、当時の佐藤栄作首相が事件を評した「狂人の仕業」と同様の感想を持ったし、その時のあまりにも、イデオロギッシュな感じが強烈で、そこまで、だった。それが厄介な先入観となっていたが、今ようやっと、この本のおかげで、それはぶっこわれた。

 まあ、この本の作者が60年代末期の若もんらしく、彼らが大好きでワシら世代には戯言にしか聞こえない「同時性」、ほれ、革命やらが世界同時に起きて世界があるときに一度に変わってしまうかも、という思想なのだが、その部分がちょっと冗長に思えた。だいたい、チェ・ゲバラの行動と「シンクロ」させたりしようとするんだぜ。あとはランボー持ち出して、カメラ持って世界を放浪してたら、とか(三島由紀夫がヒッピーになれっていうことか?)。それでも、ちゃんとユング紹介して、この世代にしては、良心的である。

 60年代「スーパー・スター」として、ブイブイ云わしていた筈が、1970年に入り、事件(十一月二十五日)寸前にもなると、「anan」の編集長に(三島由紀夫を出すと)「雑誌が古くさくなる」と拒否されるとこ、作者はめちゃくちゃ憤慨しとるが、その後の70年代以降のある種の「ノリ」を象徴しているようで、興味深い。時代そのものがやはり、大きく変わってしまっていたんだろう。スーパー・スターどころか、もう、スタアなんか、必要としない時代がずっと、やもんな。

 そうしたら、あの事件すら、別の解釈が可能になってくるわけで・・・ま、書き続けてもこんなのがダラダラ続くだけだ。今日は、このくらいで。

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