2017年4月3日月曜日

4月3日

 あっちゅーまに4月。云うか、もう春。なんか、数日前まで極寒みたいな感じだったんで、ほわ~としてますわ。

 今日は何やら、ばたばたしてて、もう、早く家に帰りたくて帰りたくて、しょうがなかったです。
 

 1985年の12月、クリスマス付近の、まあ、いわゆるトップシーズン、航空運賃からホテル代まで何から何までクソ高いシーズン、オレはジャマイカに行った。
 就職して、2年にもならないのに行けたのは、ひとえに残業代が信じられないぐらい貰えてたからである。当時、先端業種と呼ばれておったが、何から何まで古くさいのでなんで?どこが先端?と思ってたが、最近ようやっと、わかってきた。昨今のいわゆる「ブラック企業」の走りであったんだろう。21世紀を先取りしてたわけだ。超先端!
 月440時間だったこともある。年間平均月300時間超えてたんではないか?毎月がボーナス、いや、それ以上もらえるけど、使う暇なかったの。

 当時、ジャマイカの音楽界は、スレンテンというリディムトラックが生まれ、文字通り、大変換期であった。
 ただ、こっちには、何かとんでもないことが起きているのではないか?という雰囲気は伝わってくるものの、当時の日本では誰もそれを説明できなかった。わかっていたのかどうかも怪しい。
 ジャマイカ、行くしかなかった。


 モンテゴベイの、リゾートホテル付属のディスコ、それも、12時を過ぎてジャマイカの音楽かけていい時間(12時まではフツーのディスコサウンドで観光客が踊っていて、12時以降は現地の人も入れるシステム)で、初めて、耳にしたときの衝撃、たらなかった。なんじゃこれー?である。
 すぐさま、憑かれたように、DJブース(ここはフロア上にあった)に飛び込み、ぐるぐる廻る、アナログディスクのレーベルを確認しにいった。
 次の日、そのDJ連れて、街のレコード屋に行って、買い漁った。以降、そのDJ(ディスコのDJの意味ですよ)は、オレの観光ガイドみたいになって、仲良くなり、自宅に泊めてもらったり、アキアンドソルトフィッシュ作ってもらったりした。奥さんが美人でビビった。

 以降、帰国まで、毎日深夜0時には、そのディスコに通いつめ、スレンテン、及びコンピューター・ルールベースのレコードで、踊りまくった。スタラグはあったかどうか覚えていない。このリディムを、からだに叩き込んでおきたかった。
 どうして?この曲がかかった瞬間、からだごと、ハマりたかったから。
 
 このあたりを思い出すと、今でも胸が熱くなる。

 なんで、日本のディスコで、たかが、モベイの観光ディスコで出せる気持ちいい、ど低音、出せないの、と帰国してから、思ったりした。
 まあ、いい。
 オレはうまれてはじめて、音楽の「革命」に遭遇したのである。

 ロックなんか聴いていると、60年代のビートルズ出現から、ウッドストックやらなんやらの熱気なんかを、音楽評論家なんか、盛って自慢するもんだから、すごく憧れてたもんであるが、すっぱり決別することができた。このスレンテンは、それに匹敵する、あるいはそれ以上の大きな変化を、ジャマイカの音楽、世界中の音楽にもたらすものだった。「わたしは、今、生きているぅ」って。
 
 
 スレンテン以降、怒涛のごとく、「新しい」ものは生まれ続けた。オレは、単にその「新しいもの」を聴いているだけでよかった。そして感じ取るだけでよかった。そして、本当に気に入ったものをみつければ、いい。なんと、楽なことであろう。

 1985年、27才、ようやっとようやっと、「音楽」がわかった。

 もちろん、なにごとにも終わりがる。新しいジャマイカの音楽に「新しいもの」を見つけることができなくなったら?
 過去のジャマイカの音楽の「新しいもの」を見つけにいけば、良い。そこにも、無くなったら?日本の音楽に「新しいもの」を見つけに行けばいいのである。そうして、探しに行くとこを広げていけばいいだけ。

 

リズム特集:Sleng Teng(スレンテン) - レゲエレコードコム: "ダンスホールにおけるデジタル革命の先陣を切ったモンスター・リズム。たった一台のカシオ・キーボードから生まれた強烈なグルーブはジャマイカ中を熱狂の渦へと巻き込んだ。このリズムはウェイン・スミス(Wayne Smith)とノエル・デイヴィー(Noel Davey)なる2人の若者によって生み出され、ロカビリー界のスーパー・スター、エディー・コクラン(Eddie Cochran)の代表曲、'Something Else'のフレーズをカシオ・キーボードで弾いていた際に偶然発見されたと言われている。その後ジャミーズ(Jammys)のスタジオに持ち込まれ、トニー・アッシャー(Tony Asher)によってペースが落とされたリズムは、完全なるダンスホール・トラックとして確立されるのである。これによりダンスホールにはデジタル化の波が押し寄せ、コンピュータライズドと呼ばれる打ち込みのトラックが主流となった。コスト削減の面においても制作面で大きな転換期となった。オリジナル・ソングである、ウェイン・スミスの'Under Mi Sleng Teng'はモンスター・ヒットとなり、その後もジャミーズ(を中心に様々なレーベルから多数のヒット曲がリリースされた。ジャミーズ(Jammys)の'Sleng Teng'を基盤としたリメイクから、ストライカー・リー(Striker Lee)やハリーJ(Harry J)による高速の'Sleng Teng'等様々なヴァージョンがクリエイトされ、リリースされた。"

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