2015年8月1日土曜日

ほんま、キンクス好きでよかった。

 まあ、ある法案に反対するんはぜんぜん、かまわないと思う。デモもいいだろう。

ただ、デモに集まったみんなで、法案を「悪」として、攻撃するうちに、あたかも、自分が「正義」、と勘違いしてしまい、そのうち、なんか、「悪」に向かって罵詈雑言の限りを尽くしているうちに、つい、云っている自分たちが「善」で「清く」そして「エラく」なったような気がして、そのうち、それをすっかり信じこんでしまう。「悪」を攻撃するのは、誰でもできるというのが、どっか、行ってしまうのである。その「悪」よりもっともっと、「悪」ですら、できる。

当然、もう「絶対悪」となってしまった法案を通そうとする、与党は、当然「絶対悪」、100%「悪」である、当然、首相など、世界歴史レベルの「極悪人」である。それらを罵倒しまくるオレたちこそが、「正義」、「絶対正義」と信じこむようになってしまう。自分たちが間違っているんじゃないか、と云う、後ろめたさ、疑問、一切生じることがない、なぜなら、自分たちは、「絶対正義」なのだから。

でも、ワシらからみたら、単に、ある法案に反対しているだけで、自分が「正義」、それも、誰の疑義も挟む余地のない、「絶対正義」という、神の領域ですらある存在になれるもんだろうか、と思ってしまうわけである。しかも、ややこしいことに、「絶対正義」であるだけなら、ともかく、どうやら、圧倒的な「精神的優位性」まで獲得したようである。それが証拠にその法案に賛成するヤツは、もう、人類の敵レベルの罵詈雑言を被せられる。

単に一法案にNoと云うだけで、こんな、もう、恐れ多くも畏くも「神の領域」に誰もが、達することができるものなのだろうか?
誰か、ツッコミを入れるヤツがおらんのか? 

御存知のとおり、60年代の大学紛争、最初は、1968年あたりの学費値上げ反対運動やらマスコミ授業批判、医学部のインターン問題等,フツーの人もなるほどな、と思う問題で、デモや学内スト等で始まった。それが、一年後には、東大安田講堂事件、2年後にはよど号ハイジャック事件、たった、4年には、あのあさま山荘リンチ事件、である。あといろいろ悲惨な事件あるけど、後は調べてくれ。

彼らは、みんな、「正義」であった。
そして「正義」は、暴走する。






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