2007年6月21日木曜日
六月二十一日
おっしゃるとおり。ツバメは狩られまくっとります。昨日は弱っている筈のライオンに狩られたし、それよりなによりも、今季は何故か、トラにひとりだけ、狩られております。
ま、心配せんでもよろし。愛犬の死、はい、まだ、ひきずってまっせ。愛犬最後の日、実は、まさか、死ぬとは思わないうちに、こてっと逝ってしもたからなあ、しゃあない。
だいたい、このところ、ご近所歩くだけでも、つまり、そこは、かつての愛犬との散歩コース、あれやこれや、思い出しては、涙、涙、最近では、もう、上を向いて歩いてますわ、もちろん、涙がこぼれないように。
家におるときは、つい、まだ、いつものところにおるような気がして、いつものように呼ぼうとして、声を出す寸前、もういないことを思い出し、そして、涙、涙、そして涙だ。
まあ、こういう時は思う存分、悲しんだ方がエエそうである。我慢するというか、カッコつけたり、忘れよう忘れようとしたら、アカン。そうやって、自分にウソついたら、アカンそうである。今はご覧の通り、急性ウツ病の症状を呈しておるが、変に今、悲しんでいなかったら、後で何かの拍子で、どっと来て、あれやこれやが複雑に絡み合い、「真性」になっちゃうこともあるらしい。ちょっとオーバーか。
とは云え、まあ、このサイトは音楽のブログ、この哀しみさえも、いや、こういう哀しいことがあればなおさらのこと、昭和歌謡を聴いて、乗り越えて行かなあきません。
このところ、よく聴いているコンピレーション「悪なあなた」とかは、ちょっと聴かれへん。なにせ、「ビッチ歌謡」、ビッチ=メス犬やもんなあ。もろ、あきまへん。そいで、低い方からどんどん歩を進めてくるような西田佐知子やらは聴く気がしない。そいで、ガラにもなく、明るく他愛のない、つまり、内容のあまりない曲、聴こうと思って、南沙織 の、「17才」 (昭和46年 作曲筒美京平 作詞有馬三恵子 以下歌詞より部分引用)聴いた。
・・・あかんかったね。
思い出してもたがな。
「あなたの腕をすりぬけて、みたの」
愛犬は海が嫌いで、最近は滅多と行かないが、若い頃はそれでも、よく連れて行ったもんだ。
あの犬、何故か、猫には強いが、波がめちゃくちゃ怖いらしく、最初は我慢していたのだが、ひとつ、大きい波がざぶーんと来た刹那、めっちゃくちゃ反応して、とうとう、首輪を「すりぬけて」逃げてしまった。幸い、「誰もいない海」、追いかけたね。
「走る水辺のまぶしさ」、逃げるちゅうても、犬にとってみたら、ふざけているようなもんで、実は「早く強くつかまえに来て」ぐらいのかんじなのだが、こちとら、焦ってもて。しかも、中年男、砂浜走る、ちゅうのは、すぐに、はあ、はあ、ぜいぜい、実際、「息も出来ないぐらい」追いかけて走ったもんである。 おお。その時のこと、すっかり思い出してもたぞ。
しかも、1番の歌詞のおわりは、
「私は今、生きている」、だ。
・・・・わぁーん。
一番の歌詞で、このザマだ。
二番にはいると、「動かないで、お願いだから」と、ようやっと、捕まえられそうな時のオレの気持ちを見事表現しているし、三番の終わりには、もうイヤがらせとしか思えないほど、「私は今、生きている」を何度も連呼しよる。
でも、あの時は、しんどかったが、オモロく楽しかったなあ。
南沙織聴いただけでも、これほど、思い出せるとは。かくして、昭和歌謡の奥深さを実感した次第である。
天地真理ぐらいにしといたら、良かったかな、テニスコートとかに犬連れてったことないから。
ま、私はいま、生きとるちゅうことで。